からあげの賞味期限

あつくても、さめてもおいしいアイドルの話。

書き込みが足らないのか、余白を作っているのか、紙一重の違い

あさが来た、絶妙なさじ加減のおかげで楽しく見ている。

朝ドラというのは、長い期間を費やして放送される。ただし一回分は起承転結を描くには少し短いという、難しいドラマだと思う。その中であさが来たは「何もない一日」を描いているようで後の伏線になっているので気が抜けない。謎解きを見ている気分だ。

 

そこで思ったことが表題である。私はドラマの世界というものをよく知らないのだけれど、あさが来たというドラマは、いろんな人がそれぞれに書き込めるように脚本にたくさんの余白があるように思う。

加野屋の奉公人が炭鉱がどのようなものか、ということを話すシーンではミニコントのようなものが挿入されていたり、新次郎が三味線を家で弾きあさに聞かせるシーンでは、よのがそっと開けた障子の窓から正吉が聞いていたり…。演じ手に委ねられたシーンが味わいを出している。

もとから書き込まれていた場面なのか、役者さんたちの色付けなのかという境界線が薄く自然に見ていられる。

 

私たちに委ねられている場面も多い。例えば、五代の仕事ぶりだ。「結局何をしている人か、仕事ぶりはほとんどかかれなかった。」とそれを惜しむ声も見られたり、脚本の手落ちと指摘する声も見られるようだけれど、あくまで主人公を軸にした中で、歴史に埋もれていた偉人にスポットを当てた点を鑑みれば十分すぎるのではないかと思う。描かれていない五代の姿を想像するには足りる書き込みがあるし、わからないのであれば、調べれればいい。史実を下敷きにしたドラマの醍醐味だ。

 

すべてを説明しないということはとても難しい。大事なところを抜かしてしまうと話が飛躍しすぎで、所謂「ご都合主義」であるドラマになってしまう。

もちろん、あさが来たというドラマにご都合主義の展開がないわけではない。今日、山崎を雇うというシーンなどは「そこは榮三郎に言おうぜ…」なんて思うところだ。*1

しかし、たまに出るご都合主義はドラマのご愛敬だ。過ぎると「またか!!」となってしまうだけである。主人公のキャラクター像が丁寧に書かれている分、今回の展開も「まぁ、きっと後で話すんだろうな…」なんて余白を埋める土壌は残してくれている。

 

それにしても朝ドラというのは、不思議なコンテンツであると思う。同じ時間帯に展開されているだけで時代背景もテーマも違うドラマを同じ俎上に上げてしまう。大河ドラマは「史実を扱う」という共通のプラットフォームがあるから、歴代の作品が比較されるのは理解できる。しかし朝ドラは時代はバラバラ、フィクションとノンフィクションが入り乱れている。その中で当たり前に比較が行われているのはすごく奇妙に映る。

出来不出来の評価の根拠が、個人の好みじゃん…というツッコミがしたくなることがほとんどだ。

 

さらに今回は実在する人物を描いた小説を「原案」にした、という体裁をとっているからそれも興味深い。

『妾のくだりを描かないなんて』と話題になってしまった一方で、『はつが出てこないとつまらない』という意見が出てくるのもその妙だと思っている。本来はいるべき人だが、焦点を当てたいところではないため削り、主人公の見せたい面を強調するため、違う人生を創り出す。史実になぞらえたり、原作を反映するだけでは見られなかった醍醐味が、批判のやり玉になっていると悲しくなる。史実を紹介することがコンセプトではないはずである。

 

それでも、評価が分かれる作品というのは、長く愛される作品になる裏返しであると思う。自分の出した評価が妥当であるか見直したくなるから、ということや、評価が分かれるからこそ同じ見解をしていた人と共感したり、違う意見の人から新しい楽しみ方を受け取ることができるからである。

五代さんが出なくなると見なくなるかも…なんて危惧していたが、余白がどう埋められていくのか、自分がどう埋めていくのか、と、最後まで楽しめそうでワクワクしている。

 

*1:でもそこのシーンを描いてしまうと間延びがしてしまうこともとてもわかる。